大田区は、23区の最南部に位置し、北を品川区、西を目黒区・世田谷区、多摩川を挟んで神奈川県川崎市に接しています。
昭和22年7月1日、大森区・蒲田区が合併して大田区になりました。
地形は、武蔵野台地の北西部の丘陵地帯と、東京湾に臨む南東部の低地に分けられて、江戸期は、海苔の養殖が盛んでした。大正期以降は中小工場が進出し、商・工業地域となりました。 |
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多摩川堤防の桜並木。安藤広重の「名所江戸百景」に描かれた洗足池。かつては江戸前の魚が水揚げされた漁師町の羽田。高級住宅地として知られる田園調布。活気に満ちた都民の台所、太田市場。庶民派の町、下丸子。様々な楽しみに出会えます。 |
池上梅園です。
戦前まで北半分が日本画家伊藤深水氏の別邸で、自宅兼アトリエで「月白山荘」と呼ばれていました。戦後に築地の料亭経営者の別邸となり、その後に東京都に譲渡され、大田区に移管されました。
大田区の区花である梅は30種あまり370本が植えられています。 |
日蓮宗の大本山池上本門寺です。建立されたのは17世紀末から18世紀の初頭で、日蓮聖人の墓所として知られています。国の重要文化財に指定されている五重塔など貴重な歴史遺産が残っています。大都会の中に静寂が残っていました。階段脇にアジサイが咲いていました。 |
蒲田駅西口から線路に沿って徒歩11分程の所にあるトーチドットベーカリーです。クリームチーズデニッシュ、洋なしデニッシュ、お茶あんぱん、リッチクリームクロワッサン、フレンチトーストツナなどです。 |
西馬込の国道1号線に面している、メゾン・イチ西馬込店です。美味しそうなバゲットのサンドイッチを数種類買いました。 |
古民家カフエ、連月です。落ち着いた雰囲気の店内に、欧米人のお客様がいたり、勉強をしている子もいました。昼ちょっと前に寄って、連月豆カレーを食べました。 |
馬込は文士村と坂のまちです。大正時代に移り住んだ尾崎士郎。日本画家・川端龍子。詩人・童謡作家の北原白秋。現代女流かな書道の熊谷恒子。穏やかな田園風景が広がっていた馬込周辺に、大正末から昭和初期にかけて、数多くの作家や芸術家がが移り住みました。 |
駒込図書館で住宅地図の馬込を見ていたら、赤羽精米店 ( 販売所) を見つけました。場所は、国道1号線に面した東馬込1丁目です。お尋ねをしたら、最近店を閉められたそうです。お店の名前は、当時の地名「赤羽」からとって名付けられたたそうです。
近所の洋服屋さんに伺うと、確かにこの辺りを赤羽とよんだそうでした。でも、今は何も残っていないようでした。 |
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大田区の文化財 第24集(地図でみる大田区 1) (大田区教育委員会 編) の中の、東京郊外 荏原郡 豊多摩郡 全地図 大正末期の大田区付近(大正14年11月1日印刷)より、荏原郡馬込村に赤羽がありました。 |
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東京布荏原郡馬込町全図 昭和初期の馬込町です。 解説によると、かつての馬込村は大田区域内最大の村で、江戸時代からの一村が、明治以降の町村合併の際も、そのまま一貫して新しい村や町へと移行した
と、書かれていました。 |
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馬込ふるさとめぐり 馬込地区青少年対策委員会 が作成している小冊子、まごめの字名地図の裏表紙にも赤羽の記載がありました。 |
昭和7年、東京市周辺の5郡が東京市に編入された時に、町名地番変更が行われ、この時に、荏原郡馬込町の天沼、赤羽、後谷、霜田、堂寺、松原は無くなり、馬込町東四丁目になりました。
赤羽があったのは、環七通りの北側で、第二京浜 (国道1号線) に分断された北馬込2丁目、東馬込1丁目あたりと思われます。 |
山梨県の笠取山を源とする多摩川は、全長138km。その最下流を大田区を流れ、東京湾に注ぎます。河口近くの多摩川は穏やかで、川岸の公園、緑地は区民の憩いの場所です。シラサギが小魚を探していました。 |
参考文献 |
角川書店 日本地名大辞典 東京都
兜ス凡社 日本歴史地名体系 東京都の地名
大田区教育委員会 大田区の文化財 第24集
馬込地区青少年対策委員会 まごめの字名地図 |
訪れた日 |
2014/10/08・16 2015/06/13・16・07/25 2019/03/01 2019/05/11 |
大田区役所 |
〒144-8621 東京都大田区蒲田5-13-14 TEL 03-5744-1111 |
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